俳句はわずか17音の中に季節を表す言葉を詠み込む日本独自の詩形で、その特徴は世界でも類を見ません。「俳諧の連歌」として始まりましたが、松尾芭蕉(1644‐1694)によって芸術の域に高められました。俳句は現在、国内外で人気を博し、学校の教材としても使用されています。
俳画とは俳句と絵が一体となった作品で、芭蕉をはじめ多くの俳人が手がけました。中でも与謝蕪村(1716‐1783)による俳画は優れており、俳句に詠まれた情景や事柄をそのまま描かず、見る人の想像を膨らませる工夫がなされています。
本展では、芭蕉直筆の《「ふる池や」発句短冊・極書》や2022年に再発見され話題となった、《野ざらし紀行図巻》、蕪村の《「いかだしの」自画賛》など多くの優れた俳画を展示します。名品を通して、俳句愛好家だけでなく、初心者の方も俳句と俳画の魅力を感じることができる絶好の機会です。
第1章 芭蕉の俳句
第1章では俳聖・松尾芭蕉にまつわる作品を紹介します。芭蕉ほど生涯にわたって俳句の作り方(俳風)を変化させた人物は稀です。芭蕉は40歳頃までは言葉遊びを中心とした俳風や当時流行していた字余りや漢詩の調子を用いて句を作っていました。
41歳の秋、「野ざらし」(骸骨)になることを覚悟した句を詠んで出発した『野ざらし紀行』では、特に名前もない山に春を感じたという体験を「春なれや名もなき山の薄霞」という句にするなど、旅の中で見たことをそのまま句にするようになります。芭蕉自らこの旅の様子を絵に表し、文字を加えた《野ざらし紀行図巻》は、2022年に再発見され、福田美術館のコレクションに加わりました。このたび、嵯峨嵐山文華館としては初めての展示です。
芭蕉直筆の『野ざらし紀行』は天理本(天理大学附属天理図書館蔵)以外に福田本(福田美術館蔵)しか確認されておらず、中でも福田本は全体にわたって文章とともに鮮やかな挿絵が描かれた大変貴重な作品です。
本章では《野ざらし紀行図巻》の他に《「ふる池や」発句短冊・極書》など芭蕉の代表作品を展示します。
また芭蕉に絵を教えたとされる森川許六筆《百花譜》も初公開します。
「松尾芭蕉像」中村芳中画/江森月居句
可愛すぎる芭蕉先生
いざゝらば雪見にころぶところまで 月居拝書
江戸時代の中頃に大坂で活躍した画家、中村芳中が描いた芭蕉像。道帽と呼ばれる頭巾をかぶり、僧侶が用いる墨染めの衣に似た褊綴を身に着けています。本作の芭蕉の表情は他の絵とは違い、とても愛らしく印象的です。
画面上の芭蕉が詠んだ「いざゝらば」句は、1687年の作。雪が降ってきたので、道で滑って転ぶ所まで雪見に出かけようという意味です。俳句を書いた江森月居は京都出身の俳人。与謝蕪村に俳諧を学びました。
「藤の実は」句切 松尾芭蕉 17世紀
「ばせを」=「ばしょう」
関の住素牛何がし、大垣の旅店をとぶらはれ侍しに、かの藤白みさかと云けむ花は宗祇のむかしににほひて藤の実は俳諧にせむ花の跡
「藤の実は」句は、1689年の作。「おくのほそ道」の旅の途中、岐阜県大垣に滞在していた芭蕉が同県関市に住んでいた素牛と会った時に詠みました。素牛が住んでいた関は、15世紀に活躍した宗祇が「関越えてここも藤白御坂かな」という歌を詠んだ場所。藤の花だけを詠むのではなく、藤の実を題材として取り上げても良いはずだという意味です。
「あら海や」発句短冊 松尾芭蕉 17世紀
「奥のほそ道」で詠んだ名句
ゑちごの驛出雲崎と
いふ処より佐渡がしまを見わたして
あら海や佐渡によこたふ天河 芭蕉
この句は、1689年の作。「おくのほそ道」の旅の途中、現在の新潟県の出雲崎で詠んだ句です。芭蕉は同地で見た夜の日本海に浮かぶ佐渡島の島影、その手前でうねる日本海の荒波、空をまたぐように輝く天の川という壮大な風景を詠もうとしました。
「ふる池や」松尾芭蕉 発句短冊・沢露川 極書
「ふる池や蛙飛びこむ水の音」といえば、芭蕉が詠んだ俳句の中でも最も有名な句の一つです。
カエルがポチャンと古池に飛びこむ情景です。それをありのままに詠むスタイルは、まさに俳聖・芭蕉が至った俳諧の境地なのです。
書き寄せられている文章は、極書(きわめがき)と言って「これは本物です」と説明を寄せていっるものとなりますが、こちらを認めた沢露川は名古屋在住の俳人で、1691年以降に芭蕉に学び、師とその門人たちの俳風を各地に広めました。
最後の添えられた俳句は沢露川によるものです。
「まゆはきを」発句短冊・紅花図 作者不詳画 松尾芭蕉句
17世紀
「まゆはき」は化粧道具
まゆはきをおもかげにして紅粉の花 ばせを
紅花の花は、その形が「まゆはき」という化粧用の刷毛に似ているという意味。紅花の古名である末摘花は『源氏物語4』の巻名にもなっており、尾花沢の情景の中に平安時代の貴族の姿を想像しようとしました。紅花の絵は短冊を掛け軸にする際に、後世の人が描き加えたものです。
「ふらずとも」自画賛 松尾芭蕉 17世紀
蓑と笠で竹を騙す
ふらずとも 竹樹(うう)る日は 蓑と笠 芭蕉画
「ふらずとも」句は、1691年の作。中国では旧暦5月13日に竹酔日といって、この日は竹が酔っているので植え替えられたことに気付かず、枯れないという言い伝えがあります。その時期、日本では梅雨時なので竹を植えるときは蓑と笠をつけて、竹酔日と思わせて竹を植えるのがいいと、竹を思う気持ちを詠みました。
「きりさめの」発句画賛 森川許六画 松尾芭蕉句 17世紀
許六は芭蕉の絵の先生
きりさめの空をふようの天気かな ばせを
「きりさめの」句は1692年頃の作。細かい雨が音もなく降る中で、芙蓉の花が一段と美しさを増す様子を詠んだ俳句です。この句の右には水色と墨で描かれた葉の間に、薄い赤色で花びらが見えます。絵の作者である森川許六は彦根藩の武士。1692年、芭蕉に入門して俳諧を学び、許六は芭蕉に絵を教えたと伝えられています。
「三日月や」ほか四句色紙 松尾芭蕉 17世紀
芭蕉30代後半の4句
三日月や朝顔の夕つぼむらむ
朝顔に我は食くふ男哉
江戸三また暮秋の詠
月しらで影は入日の跡の富士
枯枝にからすのとまりけり秋の暮 江城深川 芭蕉之
芭蕉の秋の俳句4句を書いた色紙。いずれの句も左端にある落款から30歳後半、江戸の深川にある芭蕉庵に住んでいた時期に書かれたことが分かります。
「三日月や」句は、1682年以前の作。朝顔は朝開くが、その準備として前日の夕方に蕾をつけるのと同じように、今夜の三日月は満月になる準備をしているようだという意味です。「朝顔に」句は、1682年以前の作。弟子の其角が夜更かしをしていることに対して、自分(芭蕉)は朝顔を見ながらご飯を食べるという、当たり前の生活が大切であると伝えています。
「月しらで」句は、美しい月と、日が暮れたあとの富士の影を比べた句です。「枯枝に」句は、1680年以前の作。枯れ枝に止まっている鳥に気付いて、秋の寂しさを詠んでいます。
野ざらし紀行図巻 松尾芭蕉 17世紀
芭蕉が絵を添えた紀行文はこれだけ!
『野ざらし紀行』は、芭蕉による初めての紀行文です。1684年8月、41歳に当たる芭蕉は江戸を発ち、名古屋と伊勢を通って故郷の伊賀に到着します。その後、京から近江、名古屋を経て、江戸深川の庵に翌年4月末に戻りました。その旅で詠んだ俳句を中心にまとめたのが『野ざらし紀行』で、芭蕉独自の俳諧を確立する画期的な作品となりました。
芭蕉の親友山口素堂の文で始まる《野ざらし紀行図巻》は、芭蕉自身が文章と俳句、さらに21場面の挿図を執筆した作品。現在2点しか確認されていない芭蕉自筆の『野ざらし紀行』のうち、教科書などには本作の文章が一般的に用いられてきました。また、紀行文全文と絵を伴うのは本作以外になく、芭蕉研究の極めて貴重な資料です。
百花譜 森川許六 17-18世紀
花の絵はからいらしいが文章は辛口
彦根藩の武士であった許六は、狩野探幽の弟である狩野安信に絵を学んだとされています。
本作は梅・桜・海棠など、30種類の花についての許六の考えをそれらの絵と共に記した巻物です。許六が50歳の時に描いた作品です。
第2章 蕪村の俳画
第2章は与謝蕪村の作品を中心に展示されています。蕪村は大坂に生まれ、20歳頃江戸に出て俳諧を学びますが、27歳から約10年間僧侶として北関東・東北地方を放浪します。42歳頃から京に定住、僧侶を辞めて結婚しました。
蕪村は、絵画と俳諧の2つの分野で活躍し、絵に発句を書き添えた作品を多数描きます。これは後に「俳画」と呼ばれますが、蕪村の時代にまだこの用語はなく、手紙の中では「俳諧ものの草画」と呼ばれました。「草画」とは細部まで丁寧に描いたり、濃い色を付けず、大まかに描いた作品を指します。
本章では蕪村の俳画を多く展示するだけでなく、横井金谷(きんこく)などの弟子の作品や呉春による俳画も紹介します。
「松尾芭蕉像」与謝蕪村 天明2年頃(1782)
蕪村が描く憧れの芭蕉先生
芭蕉に憧れていた蕪村が描いた、芭蕉の肖像画と俳句。褊綴姿で、両手を膝に当てて座り、穏やかな表情を浮かべています。上に書かれた俳句は、いずれも芭蕉が旅に出た時に詠んだものです。
「はかま着て」自画賛 与謝蕪村 18世紀
それでもフグを食べたい
はかま着て鰒(ふぐ)喰ふて居る町人よ 夜半翁
荷物を持つ子供を連れる男は、少し前屈みになりながら急ぎ足で歩いているようです。この句は、1777年の作。葬式に参列した後にもかかわらず、毒にあたって死ぬかもしれないふぐを食べに行く滑稽さを詠みました。蕪村が描く俳画は、俳句の内容をそのまま絵にするのではなく、見た人が色々と思いをめぐらすことができるように考えられています。
「こちらむきに」自画賛 与謝蕪村 18世紀
偉大な先達たちの句を踏まえて
こちらむきにたつ鴫はなし秋の暮
「こちらむきに」句は、12世紀に活躍した歌人西行が詠んだ「こころなき身にもあわれは知られけり鴫立つ沢の秋の夕暮れ」、芭蕉の「こちら向け我も寂しき秋の暮」という2つの歌を踏まえて作った俳句。秋の暮れの哀れや寂しさを感じているのか、鴫は背を向けるという意味です。
「春惜しむ」自画賛 与謝蕪村 18世紀
後ろ向きの自分をこっそり描いたのかも
春惜しむ座主の聯句に召されけりに
この句は1780年の作。由緒ある寺の座主が開催する連句会に呼ばれて、春を惜しんだことを詠んだ句です。髪を剃って黒染めの衣を身に付けた人物が顔が見えないように座る姿は蕪村の自画像に共通する特徴です。蕪村が座主の連句会に出席したかどうかは分かりませんが、後ろ向きの人物として蕪村自身を描き込んだ可能性があります。
「いかだしの」自画賛 与謝蕪村 18世紀
宴席で酔って戯れに描きました
嵐山の花見にまかりけるに、俄に風雨しければ、
いかだしのみのやあらしの花衣
酔蕪村三本樹井筒楼上おいて写
笠と蓑を身につけた筏師が長い竿を持って筏を操っています。筏師は嵐山に桜を見に来る人々の間では名物でした。落款には「三本樹にあった井筒楼で、酔って描いた」と書いており、紙ではなくその場にあった小さな模様がある裂地を用いた珍しい作品です。
この句は雨で濡れた蓑に、風に吹かれた桜が散りかかって美しい衣のように見えるという意味。俳句の右側には嵐山に花見に来た時、突然の風雨が起こった情景を詠んだことが架かれています。
「乾鮭図」紀楳亭画 自笑句 18‐19世紀
カッチカチの鮭
乾鮭や琴に斧討つ響あり
横長の紙いっぱいに乾燥した鮭を描いたのは、蕪村の弟子紀楳亭、乾鮭を詠んだ蕪村の句を右上から左下にかけて写したのは、同じく蕪村の弟子の自笑です。中国の4世紀を生きた戴逵(たいき)が琴を斧で壊したという話を踏まえ、乾鮭を切る時の音に、戴逵が琴を斧で壊した時の響きを重ねています。乾燥した鮭から中国の話を連想する点が興味深く、インパクトのある鮭の姿がさらに笑いを誘う作品です。
玉蜀黍(とうもろこし)図 伊藤若冲画 千代女句 18世紀
若冲と千代女のコラボレーション
うねるように伸びる玉蜀黍の葉。墨の濃淡を変化させて質感や躍動感を見事に表現しています。加賀国出身の俳人、千代女の発句「見送るに眼のはなされぬ花野かな」が書かれています。
十二ヵ月風物図鑑 呉春 18‐19世紀
蕪村先生に習いました
蕪村に俳諧と絵画を習った呉春が俳句18句と絵画13図を描いた作品。丸みを帯びた文字の形や動きのある人物は、蕪村の描き方を学んでいます。俳句の内容をそのまま絵にせず工夫を凝らしている点も、蕪村の俳画における特徴を踏襲しています。
第3章 池田遙邨 山頭火シリーズ
大正から昭和にかけて活躍した画家・池田遙邨(ようそん)は、大阪で洋画を学んだ後、小野竹喬の紹介で竹内栖鳳に師事して日本画へと転向しました。93歳で亡くなるまで、精力的に絵筆を執り続けました。
晩年は漂白の俳人・種田山頭火(たねださんとうか)に心を寄せ、彼の句の世界を絵画化することに挑戦しました。これらは「山頭火シリーズ」と呼ばれ、現在28点が確認察れていますが、ここではそのうちの4点とその下絵を展示します。京都では大変貴重な機会となりますのでぜひご覧ください。
山頭火シリーズ
すすきのひかりさえぎるものなし 池田遙邨 昭和63年(1988)
旬から広がるファンタジー
画面の大半を占める群生する芒。太陽に照らされた穂が秋風に吹かれて揺れているようです。山頭火の歌から想像して描かれた本作ですが、歌をそのまま絵にするのではなく、見る人が様々な想像を膨らませることができるように1匹の狐を描き加えています。
山頭火シリーズ
春の海のどこからともなく漕いでくる 池田遙邨 昭和63年(1988)
ただただ穏やかな春の海
春の暖かな日差しで照らされた海。波もたてずに、どこからともなくやってきた舟が穏やかな情感を醸し出します。この句に対して遙邨は川や海などで支柱や碇で袋状の網を固定して貼り、魚を捕る張網と、魚のおこぼれを狙っている白鷺を画面下に配置。舟もいなくなってさざ波だけが聞こえる、山頭火の詠んだ句の後の景色を表現しようとしたのでしょう。
山頭火シリーズ
やっぱり一人はさみしい枯草 池田遙邨 昭和63年(1988)
山頭火の孤独に心を寄せて
夏から秋への季節の変わり目でしょうか。一面に広がる草は緑に葉が茶色に変わり始めています。草に囲まれた3体の石仏と朽ちかけた社は、人の往来があまりない道であることを暗示しています。山頭火が詠んだ「孤独」という感情を見事に絵画化した作品です。